朝鮮外交の根底にある「自主化」論理

|朝鮮半島

金正日総書記の中国訪問と朝日首脳のピョンヤン会談を契機に一段と活気を帯びてきた朝鮮半島情勢は、前回のオピニオンで述べた「始まりの終わり」がそれほど遠くないことを実感させてくれるものだ。

ところがいまだにマスコミなどでは、朝鮮を「不可解な国」としたうえでの我田引水的な推測やあら捜しのようなバッシングが後を絶たない。まるで朝鮮問題に対してだけは、当事者の考えや論理を完全に無視して好き勝手に解釈することが許されているかのようである。

この場を借りてあえて主張したいのは、国際関係に対する朝鮮の論理は、米国のわがままで自分勝手な論理の露骨なわかりやすさと対極をなすような、かたくななまでに原則的で首尾一貫したものであるということだ。一言で「世界の自主化論」と称されるが、これは民族の発展過程に関する見解と、それにもとづいた国際関係モデルとして説明することができる。

朝鮮においては、民族が人々の運命開拓の基本単位であり民族にとって自主性が生命であるということから出発して、諸民族の発展過程は、一つの民族が他の民族に同化されたり併合されるのではなく、それぞれの民族が固有な生活と歴史を自由に創造しながら完全な平等と自決を原則に民族相互の協調と連携が拡大する過程であるとされる。もちろん社会が発展し民族間の交流が密接になるにつれ互いの共通性も増大するが、それはあくまでもそれぞれの民族独自の個性的な発展を前提とするということだ。

そしてここから、自主性にもとづいた団結と協調こそが人類のめざすべき国際関係モデルであるというテーゼが導きだされる。すなわち、世界には数多くの民族と国家がありそれぞれが固有の特性をもっているが、すべての民族と国家は本来みな平等かつ自由であり、したがって正しい国際関係は、自主性をもった民族と国家同士が互いに交流し協力しあう関係であるということだ。いいかえれば、それぞれの民族と国家の自主的な発展が保障され、自主性を互いに尊重しあう条件のもとでのみ、真に公正で強固な関係をもつことができるのであって、自主性が蹂躪される時には、必ず不平等と不和がうまれ真の団結と協調はありえないということだ。

このような論理の基礎には、自主性こそが人間の生命であるとするチュチェ思想の哲学がある。人間が自主性をもつことによって互いに平等であるように、民族と国家も自主性を生命とするがゆえに、その規模や経済発展に違いがあったとしても、けっして優劣や従属の関係にあってはならず、したがって国際関係においては、いかなる排他主義や差別も、特権や専横も許されてはならないという考え方だ。

世界の自主化とはこのように、国際関係において支配と隷属がなく、自主性にもとづいた民族・国家間の団結と協調が実現される世界を築くことである。

ここで自主的な発展と国際的な交流協力は、互いに矛盾するものとしてではなく、国際関係発展における統一的な傾向として捉えられている。人類は、民族・国家を構成部分とする統一体であるので、それぞれの民族・国家が自主的に発展してこそ、それらの交流と協力を強化することができるのであり、また、国際的な交流と協力が進めば進むほど、民族・国家の自主的な発展に有利な状況がうまれるということだ。すなわち自主化こそが真の国際化であるという考え方だ。

朝鮮がこのような論理をもつにいたった背景には、20世紀の歴史的な教訓がある。前世紀のはじめ朝鮮民族は日本の植民地統治によって近代的発展が阻害され、第二次世界大戦後は植民地支配から解放されたにもかかわらず大国の利害によって分断の悲劇が強要され今日にいたっている。20世紀の前半は亡国の民として、後半は分断民族としてつねに支配主義の犠牲となってきた朝鮮にとって、自主性が民族の生命であるということはまさに受難の歴史のなかで学びとった深刻な教訓だ。

「力の論理」や「アメリカン・グローバリズム」へのアンチテーゼともいえるこのような考え方から出発すると、核問題の解決、朝米・朝日関係の改善、南北の共調と統一、東北アジアの平和と相互協力にとりくむ朝鮮のアプローチとそのめざすところが、理路整然としたものとしてはっきりと見えてくるのではなかろうか。