多面的なロシア観

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冷戦時代のイデオロギー対立を引きずる米英のロシア観は総じてネガティブであり、典型的な「ロシア悪玉論」も未だに根強い。歴史的にも経済的にも因縁の深い独仏は、ロシアに一定の理解を持って接する。長大な国境を共有する中国は、社会主義時代のつながりからロシアに一目を置きながらも、時折、相互の不信感を垣間見せる。領土問題を抱える日本のロシア観も特有だが、共生せざるを得ない隣国に対してここまで無関心な国も珍しい。国が変われば、ロシアに対する見方も様々である。

民主主義よりも国家の安定や発展を優先するロシアに対して、「民主化」という万能の物差しを用いて、ロシアの民主主義が不十分だとよく批判する。しかも、なぜかロシアに対してだけ手厳しい。制度的には直接選挙を採用しているのだから、中国よりもロシアの方が民主的なはずだ。ロシア連邦が誕生してまだ20年も経たないが、成熟した大人が未成年者を見下ろすようでどこか大人気ない。ロシアはまだ発展途上なのだ。

ロシアの国力をかつてのソ連や現在の米国と比べて、いつまでたってもダメだとする意見も多い。ロシアをソ連の残像と重ね合わせ、比較軸をいつまでも米国に求めるのだ。ロシアはソ連の継承国ではあるが、面積も人口も体制も異なる。米国に比肩する超大国であったという思い癖と、米露対立という冷戦思考が抜けきらないのだろうか。ありのままのロシアを、そのまま評価すればよいと思う。

国家発展の歩みは一直線ではなく、一歩前進二歩後退、ジグザグである。グローバルな金融危機でロシアはつまずいたが、何もロシアに限らない。国内総生産(GDP)に占める国家債務の比率は、日本に比べるとロシアの方がはるかに健全である。それでも、ロシアに対する日本の姿勢は、いつまでも「上から目線」だ。ロシアはまだまだ発展の余地があるが、日本も米国も相対的に衰退局面にある。長い目でロシアを観察してはどうだろう。

どのようなロシア観を抱くかは、ロシア自身の問題というよりも、ロシアに向き合う側の問題ではないかと考える。つまり、偏見や先入観、思い込み、イメージなどで形成する主観が織り成す。どのような見方も作り上げることが可能だ。これは、国家のみならず、人に対しても同じであろう。観察する側の見識と心の有り様が問われるのだ。

政治、経済、外交といった観点からロシアを論じた場合、民主化の後退、歪な経済構造、資源外交など、ロシア異質論が目立つ。他方、文学、音楽、バレー、スポーツといった側面からロシアを眺めた場合、ロシアの芸術性に魅了される。見る角度によって、見せる素顔を変えるのがロシアである。右から見たら、左から眺める。上から見たら、下から眺める。あらゆる角度からロシアを観察する。これが多面的なロシア観だ。どのようなロシア観も、ある角度から見た一面に過ぎない。メディアなどでよく見られる「ロシアはこうだ」と断じる紋切り型のロシア観には要注意である。